部活動について徒然なるままに〜part2〜

前回のおはなし
前回は、昨今部活動に対してよく言及される言葉。

「外部化」の定義は何なのかという疑問。
そして、簡単ではあるが歴史を遡り部活動の始まり、

現在行われる部活動の目的について書いてみた。
部活動は戦後、民主化を実現する上での教育政策として役割を担うことになったが
現在ではその主な目的は、子供達の自主性を育てることにある。


自主性ってなんだろう
この「子供達の自主性を育てる」とは一体どのようなものなのか。
僕も中学高校時代を部活動を通して育ってきたが

この部分に関しては振り返ってみると

「ああ、あの時の先生の指導がそうだったのかな。」

と思う部分はあるのだけど、やっていた時に「今自主性が育っている!」

と実感することはまずなかった。
「サッカーをするのが楽しい。楽しいから好き。好きだから部活動を続ける。」
どれだけ論理的に捉えようとしても、最終的にこうなってしまう。

うーん、、これは自主性なんだろうか。
もしこれを自主性と捉えるのなら
1番大事なことはやっぱり
「楽しいから好き。好きだからする(関わる)んだ。」
というプレーする(関わる)本人の意思・感情のレベルにあると思う。

部活指導に正解はあるか

最近僕は近隣の中学校で、指導という形でサッカー部に関わらせてもらっている。

そこで子供たちと一緒にサッカーをしながら時々
「この子たちは今楽しめてるかな。嫌な気持ちになってないかな。」と思う。
(この気持ちは自分の経験の少なさ、また的確な指導ができているのかという不安から来るものでもあるのだけれど。)

それはなんでかというと単純で、子供たちに楽しそうな表情や様子がなかなか見られないから。
冷静に指導者として致命的かもしれないw

僕はプレーヤーとしてサッカーをしてきて

自分がイメージしたドリブルで相手を抜いた瞬間が。

仲間と息のあったパスが通った瞬間が。
ゴールを決めて振り返った時に見えるメンバーの驚きと喜びが混じったような顔が

大好きだった。相手が強ければ強いほどその気持ちは大きくなる。
その気持ちがサッカーを、部活動を続けさせてきたのかもしれない。

僕自身は、こうだった。
でも、部活動の目的は。もっと言うと指導に当たっている
目の前の中学生は僕が感じていたような瞬間や感情を求めているのか。
子供たちの求めている瞬間や感情はもっと多種多様なんではないだろうか。

そのように思う。

だとすると、全ての子供たちに適した指導というものは存在しないことになる。

なぜなら子供たちは、僕たちよりもずっとオリジナルな価値観を持っていて
その価値観全てに対して満足度100%を満たす指導はできないのだから。
だとすると、指導者ができることは、目の前にいる子供たちにとってよりよい(betterな)選択を模索し続けることに尽きるのではないだろうか。そのように思う。